2012年7月27日金曜日

印象派という革命

ghoti(@ghoti_sousama)/「印象派という革命」の検索結果 - Twilog(tw)

P46日本人が印象派絵画が好きな理由。日本人は何も貨幣価値だけで印象派絵画が好きなのではなく、日本美術には伝統的に花鳥風月というテーマがあると同時に、浮世絵には風景や社会の風俗を描いたものが多かった。

その結果、多くが非キリスト教徒であるために聖書に精通せず、そして古典文学(ギリシャ・ローマ神話)にも親しんでいない日本人にとって、風景や都会の風俗、そして静物をテーマにしている印象派絵画は、とても親しみやすいものなのである。

P51印象派が世に出てきた時代は、美術アカデミー、官立美術学校、そしてサロン・ド・パリ(以下サロン、官展)という体制に沿わないことには、画家としての成功が望めない時代だった。現代の画家のように貸し画廊で個展を開き自分の作品を「個性」や「創造性の自由」といった言葉で正当化できる時代でもなかったのだ。

そのうえ、幸か不幸か現代の自称も含めた芸術家たちは、印象派が直面したようなジャーナリズムの激しい批判にさらされることもほとんどないのだ。貸し画廊という商売が成り立つのは、自称「芸術家」が世の中にいかに多く存在するかがその背景としてある。

(6感想)個性を認めろじゃなくて個性を認めさせなければならない時代だったのだな。自由が認められている現代社会における自由は「なんちゃって自由」だな。本当の自由は自由が認められない社会においてのみ存在するということなのかなと(tw)
P54芸術家と職人。芸術家は知的な活動を行うエリートであるという概念に対し、職人は肉体労働者と見なされていたのである。そして、器用に制作された絵画や彫刻を工芸品と見なすならば、制作した人物の知性や理性が作品に反映されているものが芸術品と見なされた。

芸術先進国イタリアでは、16世紀を迎える頃にはすでに芸術家および芸術品という概念が生まれ、それらは職人および工芸品という概念から切り離されていた。フランスでは(略)イタリアの芸術運動を輸入することには熱心だった(略)。芸術家という概念は広まらず、

P52王立絵画・彫刻アカデミーの誕生。フランスにおける美術アカデミーの歴史は1648年に始まった。(略)パリには他のヨーロッパの都市同様にすでに同業者組合である「聖ルカ・アカデミー」が存在した。歴史は古く(略)1391年が(略)創設年とされている。

P55同業者組合(聖ルカ・アカデミー)の実情を知らなければ、後発の王立絵画・彫刻アカデミーの革命性は理解できない。(略)同業者組合では、作品販売における競合を調整し、品質の保持や互助活動も管理していた。

ヨーロッパのどの街でも同業者組合があれば、その街の組合に加入していないとその場所では仕事ができなかったのだ。そして日本の年季奉公と違い、弟子が親方に修業代や、住み込みの場合は食費等支払わなければならなかった。

その結果、他人ではなく家族や親戚内で親方・弟子関係を結ぶことが多くなっていった。実際に画家の人間関係を見渡すと、非常に濃密なのである。日本でも何代にもわたる陶芸家の一族があるように、洋の東西を問わず職人社会ではよくある話なのだ。

同業者組合では当然ながら仲間意識も強く、よそ者に対して排他的になることは想像に難くない。実際、このパリの同業者組合は加入者の数を制限しただけでなく、パリ市民や親方の子弟には組合加入料を安く設定し、反対に地方出身者や縁故のないものには高く設定した。

P56画家が組合に属さず仕事をしたいならば、王族の宮廷画家になるか、または定期市場で販売するか、もしくは僧院やパリの城壁の外などパリ警察権の外に住んで仕事をする他なかったのである。

そのため、1674年に城壁外区からパリの市街区域に入れられるまでは郊外とみなされたサン・ジェルマン・デ・プレに組合員ではない画家たちが存在したのだ。このような縁故重視の内情は、結果として作品の質の低下を招くことになった。

一方、「国王付きの画家」などの宮廷画家も縁故による世襲化を招いた結果、品質の低下へとつながっていったのである。17世紀のフランスは、当然のことながら階級社会であった。「第三身分」である平民の階層は、学者すなわちち知識人が頂点をなし、

その下に財務職保持者、そして医者や薬剤師などの専門職がきて、一番下の商人までが現代でいうホワイトカラーを構成していた。その下に、ブルーカラー(略)農場経営者がこのグループでは一番上の階層に属し、その下に画家や彫刻家が属する職人階級がきて、

P57いわゆるブルーカラーは、生活のために手を用いて仕事をする人々と考えられたため、職人階級に属する画家や彫刻家はエリートとはかけ離れた存在だったのである。ブルジョワ階級の人間が画家や彫刻家になることは、社会的に不名誉なこととみなされていたくらいに階級意識が強い時代だったのだ。

(略)その結果、職人芸と見なされていた自分の職業が、何としても高尚な「自由学芸」のひとつとして認識されるよう運動を開始したのである。そして、自意識を高めた彼らが手本として目を向けたのが、芸術先進国のイタリアだった。

「神の如きミケランジェロ」と讃えられ、芸術家という概念を確立した一人であるミケランジェロ、この天才を崇拝したジョルジュ・ヴァザーリ(1511-74)は、1550年に美術史の原点ともいうべき『芸術家列伝』を執筆したことで知られている。

そのヴァザーリが1563年にフィレンツェで創設したのがアッカデミア・デル・ディゼーニョだ。そして1571年以降、このアッカデミアに属する画家と彫刻家は、フィレンツェで仕事をするために義務づけられていた同業者組合に入会する必要がなくなったのである。

一方ローマでは、1577年にアッカデミア・ディ・サン・ルカ(聖ルカ・アカデミー)が創設され、画家や彫刻家の知的側面の向上と、彼らの職人から芸術家への社会的地位の向上が図られた。

P58ルネサンス芸術がイタリアからフランスに取り入れられたように、職人の同業者組合ではなく知性を重んじる文化的なアカデミーという概念も、イタリアからフランスに渡ってきたのである。

こうして、エリート意識を持ち始めた画家や彫刻家が、職人の身分に属する同業者と区別するためにルイ14世(在位1643-1715)に承認を願って創設したのが王立絵画・彫刻アカデミーだった。

このアカデミーで中心人物となり、影響力を発揮したのがシャルル・ル・ブラン(1619-90)である。ニコラ・プッサン(1594-1665)の押しかけ弟子だった彼は、美術理論だけでなく画家の理想像としてもブッサンを崇めた。その結果、ニコラ・プッサンの存在はフランス美術の「規範」となったのである。

P59(略)プッサンは、審美眼がなく教養にも欠ける大衆に迎合することをよしとせず、教会の祭壇画のような公的な仕事をできるだけ避け、裕福で教養のある上流階級の顧客のための私的な作品を制作するようにしていった。

その結果、単純に目だけを楽しませるような作品ではなく、知性と理性に訴えて感動させる作品を描くことができたのだ。そして、「主題は高貴でなければならない」と考えたプッサンは、大衆は単純に色彩に魅了されると見なし、それを俗悪と考えた。

そのため彼は絵画制作において、感覚に訴える色彩ではなく、知性と理性に訴えることができる「フォルムと構成」を重視したのである。こうしたプッサン の制作姿勢および理論が、アカデミーの公的な美の規範、すなわちフランスの古典主義となったのである。

アカデミーのエリート意識は、アカデミー会員が作品の販売を携わることを厳しく禁じた。貴族が商売をしないことと同じという考え方があった。実際に、ル・ブランは1662年にはルイ14世によって貴族として叙任され、年金(恩賜金)を受け取る身分になっている。

こうして王立絵画・彫刻アカデミーが、組織的に同業者組合(聖ルカ・アカデミー)との差別化を図った結果、当時の階級社会において卑しい身分と見なされた画家から、一気に第三身分での頂点に立つ知識人となり、高級官僚にもなったのだ。

P61(略)アカデミーでの付属美術学校では理論と実践において体系化され、規則に則った厳格な教育プログラムが編成された。このルブランが編成した職人ではなく芸術家を養成するための教育プログラムは、

1768年にロンドンで創設された王立アカデミー・オブ・アートをはじめとする他の美術アカデミーや、現代の美術大学や美術学校の手本にもなったのである。(略)

P63修業ではなく教育によって、職人階級との差別化を図ったのだ。そして同時に、画家たちをさまざまな拘束があった同業者組合から解放もしたのである。王立絵画・彫刻アカデミーに対しても、プッサンの美術理論に対しても時代が味方をした。
(36感想)面白い。感覚より知性を色彩よりフォルムと構成を重視するフランス古典主義の成立が、職人の地位向上のためであって、結果的に同業者組合の様々な拘束から自由を解放したというのは面白い。近代の夜明けの出来事として面白い(tw)。
P62 1661年にルイ14世の親政が始まると、フランスは絶対王政を確固たるものにするために、ルイ14世に仕えたジャン=バティスト=コルベール(1619-83)は美術も中央集権化することにしたのである。(略)ルブラン会長の下に確立したのがプッサンの美術理論を基にしたフランス古典主義だった(略)それから2世紀を経た19世紀後半においてもこの古典主義がフランスの公的な様式として通っていたことを考えるといかに印象派が前衛的だったかが想像できるだろう。

ニコラ・プッサンを知らずして、フランスの美は語れないのだ。(略)P63ルーヴル美術館など存在せず、イタリアでの美術学校が絶対視されていたため、コルベールとル・ブランは1666年にローマに支部「フランス・アカデミー」を創設した。

コンクールで「ローマ賞」を受賞した優秀な生徒を国費でローマに留学させ、古代美術や古典的絵画を模写させて学ばせたのである。そして帰国後は(略)アカデミーへの入会申請作品を提出し、アカデミー会員による厳しい審査の後に晴れて正会員になることができたのだ。

作品の評価にしても、販売が目的である同業者組合と違い、アカデミーにおいては売れるか売れないかとか、大衆に受けるか受けないかではない。文化人貴族であり、知識人であるアカデミー会員により、美術理論に基づく規範に則して裁定されたのである。

主題に関してもアカデミーによる公的な格付けが生まれた。その序列の頂点に立つのは、幅広い知識を要求され高貴と見なされた「歴史画」だった。そして次に格が高いとされたのが「肖像画」で、その下に順に「風俗画」「風景画」「静物画」となたのである。

当然、作品の価格もこれに準じた。このアカデミーによる歴史画至上主義は(略)19世紀においても、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)となっても、女性の入学を1897年まで拒んだのだのである。

P64主題の格にも身分にもこだわったアカデミーは、会員が作品を販売することは職人階級に属する卑しむべきことと見なした。1777年には新規約で、会員の作品販売は厳しく禁じられたのである。(略)しかし、画家である限り作品を売らなくてはならない。

1667年以降、正会員と準会員の作品を展示する展覧会を行うことになった。第一回の会場はパレ・ロワイヤル、1725年にはルーヴル宮のサロン・カレ(方形の間)で開かれ、そしてこの部屋の名前からアカデミーの展覧会が「サロン」と呼ばれることになった。

(略)肝心の値段に関しても、価格コントロールが目的のひとつである同業者組合では誰の作品であろうと変わらない価格設定であったが、アカデミー会員の場合はその画家に付随する名声によって報酬も決められるようになった。

ちなみにフランスでは18世紀になり、ブルジョワ層の拡大によって絵画を専門に扱う画商が誕生した。しかし、ファッションの世界でもオートクチュールとプレタポルテでは格も価格も購買層も違うように、

アカデミー会員にとって店先で作品を陳列して販売することは職人的であり恥ずかしいことで、決して貴族的でも高貴なこととも見なされなかった。そして画商は同業者組合には入れたが、アカデミーには入れなかったのである。「第二身分」である貴族階級においても、

貴族が画商のように商売に手を出すと貴族の身分を失ったのだが、王立絵画・彫刻アカデミーに通うことはできたのだ。このように芸術家としての社会的地位向上を望んだ結果、アカデミー会員に蓄積されていったエリート意識が、

19世紀後半においても前衛的な印象派たちを苦しめることになった。アカデミー会員にしてみれば、フランス古典主義を固持すること、イコール知識人兼芸術家としての社会的ステータスを維持することになったからである。

P65 17世紀末になると、アカデミー会員の間でプッサンを規範とするフランス古典主義に異を唱えるグループが出てきた。「プッサン派」に対して「ルーベンス派」と呼ばれるグループである。ヴェネツィア派の巨匠たちの影響を受け、豊麗な色彩表現で画面を構成した「王たちの画家、画家たちの王」ことピーテル・パウル・ルーベンスを規範とするグループである。

P66理性に訴えるデッサンのほうが感覚に訴える色彩よりも高尚だとするプッサン派に対して、ルーベンス派は自然に忠実な色彩は万人に対して魅力的であると主張したのである。ルーベンス派は、理性的なデッサンは専門家にしか受けないと信じたのだ。理性vs感性、デザインvs色彩の闘いであった。
(54感想)17世紀末の状況を「プッサン派」vs「ルーベンス派」、理性vs感性、デザインvs色彩、とオッカムの剃刀で斬ってくれたのは気持ちがいい。モヤモヤを簡潔に示してくれた著者に感謝。古典主義、バロック、ロココ、…印象派の流れが把握できたつもり\(^o^)/(tw)
そしてルーベンス派の主張どおり、18世紀になるとパリのブルジョワジーに人気を博し、その後は王侯貴族までも魅了したロココ絵画が生まれたのである。その創設者ともいうべき画家が、ルーベンスと同じフランドル出身で、この同郷の先輩画家やヴェネツィア派の影響を受けたジャン=アントワース・ヴァトーだった。ロココ絵画の特徴は、ヴァトーの「雅宴画」に象徴されるように恋愛の世界がメインテーマである。(略)

18世紀は色彩と感性が勝利したロココ絵画の時代がしばらく続くことになるのである。フランス美術史は、感性豊かで恋愛至上主義の時代を経験したのである。 しかし、なぜロココ絵画が宮廷までも席巻することができたのであろうか。

1715年にルイ14世が亡くなった祭、王位を継いだのは5歳の曾孫のルイ15世(在位1715-74)だった。その摂政として幼王を補佐したのが、ルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世(1674-1723)だ。オルレアン公は、幼いルイ15世の健康のためという名目で、宮廷を自分が嫌いだったヴェルサイユ宮殿からパリに移してしまったのである。その結果、宮廷人たちも先王時代の息が詰まるようなヴェルサイユ宮殿での生活から、パリのブルジョワ的な快適で私的な生活に喜びを見いだした。

P67 1723年にオルレアン公の摂政時代は終わり、宮廷はヴェルサイユに戻った。しかし、ルイ15世もその後継者で孫のルイ16世(在位1774-92)も、ルイ14世のように絶対的な権力で美術の流れまで統制しようとはしなかったうえ、18世紀に台頭してきたパリのブルジョワジーの影響もあり、ロココ絵画の時代が長らく続くことになった。

つまり17世紀が王国を中心とした男性的な文化だったのに対し、18世紀は貴族やブルジョワジーを中心とした女性的な文化となったのだ。宮廷も美術も感性豊かな時代、すなわち女性的な時代だったのである。しかし、いくらフランス古典主義(デッサン派)がロココ絵画(色彩派)の絵に隠れたかのように映ったとしても、18世紀においても王立絵画・彫刻アカデミーが権力を失うことはなく、美術界および社会において絶対的な権力を保っていた。

その頂点に立っていたのが「王室造営物総監」である。アカデミーの保護者が王室造営物総監であり、フランスの宮殿や城だけでなく庭園から美術品、そして家具までも取り仕切っていたのである。いわば、王室造営物総監は、フランス美術界の絶対君主なのであった。

1737年以降に定期的に開催されるようになったサロン(宮展)は、印象派の時代には公募制であったが、旧体制時代にはアカデミー会員と準会員に限られていた。前述したように、「文化人貴族」であるアカデミー会員にとってふさわしくない卑しむべき行為とされた「商売」に携わったものは、会員にはなれなかったため、世間に知られるためにはアカデミー入りすることが何よりも大切だったのだ。

P68 18世紀に台頭してきた新興ブルジョワジーにとって、現代と同じように成り上がりの地位から脱却するには、絵画収集が最も効果的なメソッドであったため、「よき趣味」を伝える媒体として評論家と画商も社会に登場してきたのである。

美術界において絶対的な権力を保持したアカデミーのおかげで、歴史画を頂点とした主題のヒエラルキーも守られてきたのだが、新興ブルジョワジーの間では古典的な教養を必要としない格下と見なされた風俗画や静物画の人気が浸透していったのである。そして肖像画においても、18世紀における絵画購買層の拡大により、王侯貴族向けの豪華な全身像だけでなく半身像や子供の肖像も多く描かれるよになるのだ。

しかし一方で、「見立て肖像画」や「寓意的肖像画」と呼ばれる歴史画風に演出を施した肖像画の人気は、当時の美術界における歴史画至上主義と、歴史画家に伴う名誉と特権をうかがわせる。このことは、アカデミーが保持していた権力や影響力の何よりの証なのである。

ヴァトーの繊細な叙情性を漂わせた雅宴画によって幕が開いたロココ絵画の時代も、時を経てブーシェやフラゴナールの時代になると、享楽性や官能性が強調されるようになった。

P69そして、ブーシェの庇護者(パトロン)だったルイ15世の公認の寵姫ポンパドゥール夫人(1721-64)も世を去った頃、フランスに新たな芸術様式である新古典主義が芽生え始めることになる。その発端となったのが、皮肉にもロココ芸術の絶大な庇護者だったポンパドゥール夫人の実の弟によってだった。

夫人の弟マリニ公爵アベル・フランソワ・ド・ヴァンディエール(1727-81)は、姉からイタリアで芸術への造詣を深めるように命じられ、1749年から2年にわたってイタリアに滞在した。そして、帰国後には、王室造営物総監の役職に就いたのだが、フランス美術界の絶対君主となったマリニ総監のイタリア留学の成果は、フランスにロココ様式に次いで新古典主義を広める結果となったのである。

18世紀後半に新古典主義が流行し始めた背景には、イタリアで1727年にヘルクラネイムと1748年にポンペイの発掘が始まり、古代の文化が一気に目の前に広がったことにある。そしてこの世紀の大発見は、考古学や廃墟ブームへと発展していったのだ。こうした背景もあり、最初にフランスで新古典主義が芸術様式として現れたのは建築だった。ポンパドドゥール夫人のために建てられたプチ・トリアノン宮や、パリのパンテオンがこの時代の新古典主義建築の代表的なものである。

古代ギリシャ・ローマの文化が、建築および彫刻に直接的な影響を与えやすいことは容易に想像ができるだろう。ちなみに庭園に関しては、18世紀にはフランス式の幾何学式大庭園様式から風景式庭園の時代となる。イギリス式庭園ともよばれるように、風景式庭園はイギリス発祥の庭園様式である。その着想源となったのが、ニコラ・プッサンのローマの親友であったロレーヌ出身の画家クロード・ロランの作品なのだ。

P70 プッサン同様に、フランス古典主義の立役者となったクロード・ロランの影響力は絶大で、P71 19世紀になってもアカデミーにとって「風景画の規範はクロード・ロラン」だったのだ。そのことは、近代的な価値観とアプローチで風景を描いた印象派への反動として表れることになる。

本来、フランス絵画における風景画の規範は、同じクロードでも印象派のモネではなくロランなのだ。クロード・ロランが描いた理想的風景は、それを大邸宅の庭に再現した風景式庭園としてイギリスで流行することとなった。時代は考古学・廃墟ブームということもあり、クロード・ロランの絵に描かれているように、ご丁寧にもローマ風の神殿や橋、または人工の廃墟まで庭園に再現したのである。

そして、この新たな庭園様式の流行はイギリスだけにとどまらず、ヨーロッパ大陸までも飛び火して英国式庭園として知られるようになる。フランスでは、マリー・アントワネットが、トリアノンの庭園もこの最新の庭園様式に造り替えさせることになる。

ポンパドゥール夫人をロココ様式を象徴するヒロインとするならば、この悲劇の王妃マリー・アントワネットは新古典主義を象徴するヒロインというべきであろう。事実、新古典主義の建築や家具は、彼女の夫の名前をとってルイ16世様式と呼ばれるからである。

絵画に関しては、ルイ15世時代の宮廷人はロココ絵画への嗜好が根強かったため、新古典主義の時代を本格的に迎えるのはルイ16世時代になってからである。1774年のルイ16世の即位から、フランス革命勃発の1789年まで、時代は啓蒙主義の発展で合理主義への傾倒をますます深めていった。

P72そしてドイツの美術史家ヨハン・ヨアキム・ヴィンケルマン(1717-1768)が、その著書『ギリシャ美術史模倣論』(1755)と『古代美術史』(1764)において、古代ギリシャの芸術こそが時代や民族を超越し、万人にとって普遍的な「理想美」であると説き、その美術理論は華美な装飾性と耽美性を誇ったロココ様式へのアンチテーゼとなった。そして、それは同時にヴィンケルマンに共鳴した画家たちにとって、新古典主義の美術理論の中軸となったのである。こうして感性豊かなロココ様式に対する反動から、合理的な新古典主義の時代となっていったのだ。

(略)プッサンの後継者となったのが、ダヴィッドだった。(略)

P73 1784年にはアカデミーの会員になったダヴィッドは、古代ローマを舞台にした歴史画『ホラティウス兄弟の誓い』(1785)を発表し、私情を捨てて国家のために忠誠を誓う兄弟たちを描いて名声を博したのである。ロココ絵画の恋愛至上主義から離れて、英雄的な愛国心を主題にした作品だ。作品の精神的な枢軸となっていたのは、感性ではなく理性であった。

崇高な精神を造形化したこの作品は、プッサンの絵画世界を彷彿とさせる厳格な画面構成や明確なデッサンによって、新古典主義の幕開けを告げていたのだ。こうしてフランス絵画は、その規範であるプッサンの古典主義に回帰したのだった。

1789年に勃発したフランス革命がフランス社会を激変させたように、反王権の革命主義者であったダヴィッドによって、王立絵画・彫刻アカデミーも時代に合わせた改革を迫られることになった。(略)結局、アカデミー自体は1795年に改革され、絵画・彫刻アカデミーと名前を変えることになる。そして、ブルボン家による王政復古後の1816年にフランス学士院の一部となり、

P74 芸術系の旧王立アカデミーであった音楽アカデミーや建築アカデミーと統合され、フランス美術アカデミーとして再出発したのだ。そして付属美術学校も建築学校と合併し、1819年に官立美術学校に改称したのである。

(略)ロベスピエール(1758-94)が失脚した後、ダヴィッド自身はリュクサンブール宮殿に4ヶ月ほど幽閉されてしまう。釈放後、改革されたアカデミーの会員だった彼は、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)に見出され、1804年にナポレオンが皇帝に即位すると皇帝首席画家の地位を獲得した。

古代ローマの理性と倫理観を理想に掲げた革命主義者たちにとってだけでなく、自らを古代ローマ皇帝になぞらえ、帝政の権威を高めようとするナポレオンにとっても、古代ローマの理想美を着想源とするダヴィッドの新古典主義こそがふさわしい芸術様式だったのである。

しかし、ナポレオン失脚後、ルイ16世の弟ルイ18世(在位1814-24)による王政復古が起こると、革命後にルイ16世の処刑に賛成票を投じていたダヴィッドはその罪を問われ、ブリュッセルに亡命、そして、1825年に同地にて客死したのだ。(略)弟子のアングルが新古典主義を牽引していくことになる。

P75 アングルは長期にわたるイタリア滞在後、1824年にフランスに帰国、そして、サロンに出品した『ルイ13世の誓顧』(1824)の大成功で名声を博した。以後フランス美術アカデミーの会員として、官立美術学校の教授として、そしてプッサンとダヴィッドの後継者として、彼は新古典主義をフランス絵画の公式の様式として指導していったのである。

2012年7月22日日曜日

つくり風流(みやび)

 また桜の季節がめぐってきました。桜の花が咲くというのは、なにか浮き浮きしますね。なんとなくうれしいものです。「花開く」というと念願が成就したり、一人前として認められることの象徴のように言われます。
 特に満開の桜は爽快な匂いに包まれることもあり、ハッピーになりますね。花見はなんといっても満開の時がいいに決まっています。ところが世の中にはひねくれ者もいるもので、兼好法師は『徒然草』第一三七段で「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言っています。
本居宣長は『玉勝間』「四の巻」でこれ槍玉に挙げています。「花はさかりに、月はくまなきを」見たいのが自然の人情なのに、無理にはかない無常を進んで味わうことを風流と思うのは、人の真情に逆らった「つくり風流(みやび)」だと批判したのです。

 たしかに兼好法師の感性には素直じゃないところがあるかもしれませんが、宣長は素直すぎて深みがないですね。兼好の言わんとしていることから学ぼうとし ていません。兼好は風情というのは花が咲き誇っているときだけでなく、散ってしまってそれを惜しむ気持ちからも感じられるものだというのです。引用しま しょうか。
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(いくへ)知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほ どの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書け るは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所 なし」などは言ふめる。
(訳)花は満開のときに、月は満月のときだけ見るものでしょうか。雨を眺めながら月を恋しいと想い、カーテンを降ろして春が終わっていくのを見届けないの も、(つらくて見れない切ない気持が察せられるので)それはそれであわれで情緒があるものです。まだ蕾の梢や花びらが散って庭に敷き詰められている様子な ども、見所が多いものです。歌の詞書にも「花見にまいりましたが、とっくに散ってしまっていたので」とも、「用事があっていけませんでした」などと書いて あるのは、(その惜しむ気持が伝わってきますので)「花を見て」と言うのと劣らず風情が感じられます。花が散り、月が欠けていくのを(切なく思う気持を) 慕う習いは当然のことなのですが、中には、この気持ちがわからない人がいて「この枝も、あの枝も、花が散ってしまった。もはや、花見はできない」などとい うようです。
 満開とほとんど散ってしまった桜を見比べてどちらが華麗かと言われれば、満開に決まっているでしょうが、そんなことではないのです。桜が散ってしまうこ とを惜しむ心があって、その心で見るから桜にひとしお風情を感じるということです。月も有明の月がよく歌われますが、どんどん欠けて残り少なくなっている 月ですね。夜明け前にやっと出るのですが、欠けている月を待ちわびるのです。
    名残の桜               有明の月
       IMG_6114.jpg
 滅び行くものを惜しむ気持がとても切ないわけです。それで余計に風情が深まるということです。宣長は、そんな哀しい気持をわざわざ進んで味わおうとする のは真情ではないと批判しているのです。つまり宣長は、兼好法師の美意識に仏教的無常観を感じて反発しているのです。宣長は仏教が入る以前の日本人の真情 に迫りたいと願っていたのです。
 無常ということは常でないことつまり変化して滅んでいくということですね。仏教は、人間の自我を含めて、すべての存在は滅びないような不滅の実体をもっ ていないとみなします。だから花も散るし、月も欠けるのです。その滅んでいく姿を見ると、己の体も自我も無常の定めに従って滅んでいくの を実感させられます。それで花や月を見てわが身のはかなさが身にしみるわけですね。だから風情が深くなるのです。
 でもそういう滅びの哀しみを深く味わったら、精神的に落ち込んでしまわないでしょうか。そこですね、このテーマは。そのはかない気持が文学や芸術に昇華されて表現されることによって、共感が興り、哀しみ が共有されます。するとそれが癒しになるのです。逆に哀しみを突き抜けて共感できる喜びが生じるのです。これはある意味つくり風流だけれど、そこにこそ共感を作り出す創造の喜びがあるということです。
 滅びゆくこと、死にいくことは哀しいことです。でもそれに立ち向かっていかなくては本当の感動を共有できません。この滅び行く実存にこそ、魂を震わせる美が、エターナルな意味があるというのが、仏教的無常観のメッセージなのです。