2012年5月27日日曜日

言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.10コピペ。

(1)(2009.11.28)真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である
とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現などではない

なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造される場合に、第二の隠喩が援用される。

これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木とか、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない

(2)ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質』(小松攝郎訳・岩波文庫、1952 年)
我々は事物を見うるであろうか。否、我々は眼へ及ぼす事物の影響を見るだけである。我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。そのように酢は、それが空間的・時間的に関係する客体が異るのに応じて、種々の作用をする。例外なしにすべての事物がそうであるように、酢は現象する。しかし、決して酢自体だけで現れるものではなく、常に他の諸現象と関係し、接触し、結合してのみ現れる。

視覚が樹木を見るのでなく、樹木の見える所だけを見るように、思惟能力もまた客体そのものをでなく、客体の認識されうる精神的側面を受け入れるだけである()。 その結果として生まれる思想は、脳髄がある客体と結合して産んだ子供である。思想には一方における主観的思惟能力と他方における客体の精神的性質とが現れ る。すべての精神作用はある対象を前提とし、その対象が外に存在し、何らかの方法で感覚的に知覚され、或は見られ、聞かれ、嗅がれ、味われ、或は触れら れ、要するに経験される一つの対象から生ずるものである。(p.32~33)
(3) 『差異と反復』P20
頭脳は交換の器官であるが、心は、反復を愛する器官である。(たしかに、反復は頭脳にも関 わっている。しかし、それはまさに、反復が頭脳にとって恐怖でありパラドックスであるからだ。)ピユス・セルヴィアンは、正当にも二つの言語を区別した。 ひとつは、諸科学の言語であって、等号に支配され、どの項(辞項)も他の項によって代理されうるものである。他は、抒情的な言語であって、どの項も代理さ れえず、ただ反復されることによってしか可能でないものである。
(4) Twitter / 宮台真司: なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこ ...
なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこうたらミニマルな自己関与モチーフを反復するのか。答えは〈世界〉と〈世界体験〉の差異化のためです。
現象学(フッサール)と関係論・構造主義(ソシュール)は、 虫の目(ミクロ)と鳥の目(マクロ)と視点の違いはあれど、相対論として近親性がある。まるで兄弟のよう。

(5) 虫(むし)の目 鳥(とり)の目 魚(さかな)の目
「虫の目」は近いところで、複眼をつかって様々な角度から注意深く見る目のこと。「鳥の目」は虫では見えない広い範囲を、高いところから俯瞰(ふかん)する目のこと。そして「魚の目」とは水の流れや潮の満ち干を、つまり世の中の流れを敏感に感じる目のことです。


1主観認識(世界体験)              虫の目
2客観認識(世界)                 鳥の目
3行動(世界への働きかけ)           魚の目

とみることもできる?!

(注)太字は、ghotiによる

2012年5月26日土曜日

立ち去ろうとしない過去

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.01.08コピペ。

(1)時間は待つと長いが追われると短い。
(2)嫌な時間は長いが楽しい時間は短い。
(3)子供の時間は長いが大人の時間は短い(ジャネーの法則)。

このごろ時間があっという間に過ぎる。もう朝か、また飯か、てな感じだ。

時間に対する意識。
 速く過ぎて欲しいと思うときはゆっくり進み(退屈な話、待ち時間)
 ゆっくり過ぎて欲しいときは速く進む(楽しい時間)
過ごし方による違い。
 新鮮かマンネリか
 濃密か希薄か

http://jvsc.jst.go.jp/being/seibutsujikan/002/2-3in.html

時間の感覚は変化量と変化率で測れる。前者の表現は長い短い、後者の表現は速い(早い)遅いである。

円環的感覚 またやってくる感覚
直線的感覚 もうやってこない感覚

ニーチェには『悦ばしき知識』(1882~1887)という著作がある。哲学や芸術は苦悩する人間を描くことで生命の成長やその闘争力を高めると いう主旨なのだが、そこでニーチェは苦悩には2種類があると見た。健康で満ち溢れた者がその力を放出できずにもてあましている苦悩と、疲れて不健康とな り、自分からも逃れたがっている者の苦悩である。ロマン主義的な苦悩はおおむね後者にある。
 ニーチェはこのことから、ロマン主義者が永遠や静寂や神を求めるのは、自身の苦悩や欠陥を世界の本質に由来するものとみなして(つまりは責任逃れをして)、それによって世界との逢着を錯覚するような慰みを得るためなのではないかと考えた。https://1000ya.isis.ne.jp/1023.html

初めに言葉があったのであろうか。いや、ゲーテが見たように、初めに行為があったのだ。
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)について、思い出したこと

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.09コピペ。

エントロピー増大の法則。放って置くとバラバラになってしまうという自然の掟。構成要素が相互作用しない系に適用される。要素が相互作用する系では、要素間の力(内部エネルギー)とエントロピーの兼ね合いで、系の状態が決まる。パワー、セックス、自殺 (2)
先日、苫米地さんと藤末さんの対談で、哲学や空の話(50分辺りから)が出てくるが、

宇宙=物理空間(エントロピー増大)+情報空間(エントロピー減少)

というお話をされていた。

情報空間は、抽象度がどんどん上がっていく、行きつく先が、「空」である。
空と色と無
T:だから実は宇宙の、。
色即是空空即是色は間違ってるっていうの
いろんなとこで言ってるんだけど、
ていうのは、色即是空ってことは色って物質のことだよね?
物質は空である空は物質つであるっていうと
空を下に下げちゃうじゃん。
F:うん
T:空は上だから。空包摂色空包摂無だったらいいわけ。
だから色即じゃないのよ、色即是無、無即是色、空包摂色空包摂無が正しい
ということなのですが、情報空間が説明なしに自明のこととして語られていた。関心の在りかが、そこではないので、自明のこととして、語られたわけだが、

私は、情報空間がどのようにして物理空間から生まれるのか、そこに関心があったので、この対談を聴いて、対談の主旨とは別に、あることを思い出してしまった。

私が思い出したのは、『感性の起源』で、物理空間の中に、エントロピーが増大する系と減少する系が存在するということ。すなわち、構成要素が相互作用しない系は、エントロピーが増大し、構成要素が相互作用する系は、エントロピーが減少する。(参照

で、エントロピーが減少する系とは、何かというと、自己組織化現象、すなわち生命のことである。生命がさらに抽象化(脳の神経細胞の相互作用による)されると、意識が生まれる。

この意識こそ、情報空間である。

ということで、物理空間からいかにして情報空間が生まれるか、(物理的)構成要素の相互作用によって、情報空間が生まれる、という話、でした。

対談は、これはこれで、刺激に飛んだ話がいっぱいあって、楽しかった。何度も聴きたい対談である。

包摂半順序、空と色と無に関連して、思い出したニーチェの言葉

一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。

パワー、セックス、自殺 (2)

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.01.29コピペ。

エントロピー増大の法則というのがある。放って置くとバラバラになってしまうという自然の掟。覆水盆に返らずの世界だ。構成要素が相互作用しない系に適用される。要素が相互作用する系では、要素間の力(内部エネルギー)とエントロピーの兼ね合いで、系の状態が決まる。(ref.→『感性の起源』P65)

人間の構成要素は細胞である。人間の生は細胞間の円滑なコミュニケーションによって支えられている。

http://
www.tousa-nu.com/contents/tousa/frame.htm

病気とは細胞たちのディスコミュニケーション。いくつの言語があるのか知らないが、糖鎖という言語は重要らしい。ポイントは(遺伝子によって決ま る)タンパク質を修飾する糖鎖はタンパク質の形によって決まり、遺伝子によって書かれていないということ。当然、それによるコミュニケーションも遺伝子に は書かれていない。規定はされるが決定はされない。人間の会話と一緒だな!


「糖鎖の不思議な点は、遺伝子情報の地図をもとにつくられた、タンパク質が合成されたあとに付加される点です。ゲノムの情報をこえた、不思議な情 報がかくされているのです」と語る。もちろん、糖鎖を付加したりとったりするはたらきをもつ酵素はタンパク質であるので、遺伝子の情報にもとづいている。 しかし、その酵素がどこでどのタンパク質に糖を修飾するのかは、なぞである。



特定の遺伝子によって、決められた細胞に糖が付加される例もある。私たちのABO式血液型は、特定の酵素の存在が直接、どの血液型になるかに結び ついている。ヒトの血液型の基本型はO型である。O型の糖鎖をつくる酵素はすべてのヒトがもっている。それに加えてA型、B型のヒトは、それぞれA酵素、 B酵素をもつ。A酵素、B酵素は、それぞれ別の種類の糖を糖鎖に追加する。
AB型は、両方の酵素をもっているため、A型の糖鎖とB型の糖鎖の両方をともにもつ状態になる。このように、ABO式血液型は、特定の遺伝子から合成される酵素が、決められた部分の糖鎖を決定することが、はっきりと明らかになっている例だ。


血液型の違いって、糖鎖の違いだったんだね!

ということは、神経細胞の会話の内容も糖鎖によって違ってくる、すなわち血液型によって違う!?


* 血液型と性格について否定する一部の研究者に、脳に血液型物質が存在しないと主張する人がいるが、それは全くのウソである。血液型物質は、たまたま血液中から発見されたので「血液型」と名前が付いたが、脳も含めて体中に存在している。
* ABO 式血液型物質は、遺伝子の解析による研究によれば、人類がまだ中央アフリカにいる10万年前ぐらいにA型からB型が発生した。ヒトとゴリラやチンパンジー などの類人猿は同じ血液型物質を持っている場合もあるが、それらは遺伝子的にはおのおの別に発生したものである。従って、ヒトのABO式血液型は10万年 前ぐらいに発生したと言ってよい。

(中略)

さて、ここで、この受容体には「脱感作」という状態がある、ということなのです。神経伝達物質がずっと存在していると、つまり刺激が長く続くと、 受容体に神経伝達物質が結合しているのにチャンネルが開かない、つまり刺激に反応しなくなっちゃう状態です。むちゃくちゃ興奮し続ける危険性を回避してい るわけですね。

さてさて、能見さんの本に出てくる、血液型別興奮曲線ですが、この脱感作となんらかの関係があると思われませんか?

* O型は、一度興奮しだすと(あがったりすると)収まらない。
* A型は、普段はO型ほど安定しているわけでもないが、興奮の後、開き直って安定する。
* B型は、喜怒哀楽も激しい方であるが、AやOのような興奮状態がない。
* AB型については、能見さんは2つの波を重ねてかいていますが、B型同様、AやOのような興奮まではいかない? 突発的感情変化、というのはよくいわれますが。
http://
www010.
upp.so-net.ne.jp/abofan/tousa.htm

真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.11.28コピペ。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいに冬の夜空に熊を見てしまう能力が真理を希求する。昨日からずっと気になっているデカルトの言ったこ と、

言葉は、それが表示する物とは少しも似ていないが、それでも我々にその物を理解させる。・・・自然もまたなんらかの記号を定め、我々に光の感覚を 持たせることが-この記号はその感覚に似たものをなにもその内に持っていないとしても-どうしてできないであろうか。デカルト『世界論』

これは人間の比喩によって理解する能力(ソレはアレと同じ)に通じる。ニーチェが言ったことと重なる。

すべては比喩(錯覚)なんだ。(ソレとアレの間には何ら必然的因果関係はないのに)ソレをアレとして見る。知らないことは自分の知っていることに置き換えて理解する。比喩能力は抽象化能力にもパターン認識能力にもつながる。これらの能力は個体維持に役に立っている。

と同時に、殺風景な世界(混沌)に彩り(秩序、すなわち「真理」と「虚偽」あるいは「善」と「悪」とか)を添えて味わい深いものにしている。

(メモ)
ニーチェの小論文『道徳以外の意味における真理と虚偽について』について考察した小論文を部分転写
http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/2561/1/kyoyo_86_ikeda.pdf

プラトンでは、現実の感覚的世界を超えたところに、超感覚的なイデアの世界が構想された。しかも、この超感覚的なイデアの世界こそが真なる存在の世界であり、感覚的な生成と変化の世界は虚偽の世界、見せかけの世界である、とされた。

ニーチェはこのように、現象の背後にある不変不動の実体的世界こそが真実の存在で、しかも理性による知の対象であり、感覚的な生成し変化する現象の世界は虚偽の世界である、とみなす思惟の形態を形而上学とする。

しかも西欧の思惟において、このような形而上学的実体論が、キリスト教と結びついた。神的なものが超感覚的彼岸であり、この世は感覚的仮象の此岸であるとされ、真の世界である彼岸と虚偽の世界である此岸とが、対立された。

こうした思惟の形態は、それまで彼岸に、神的なものに向けられていた誠実さが、此岸に、自然と人間そのものに向けられるようになったとき、捨てられたはずだった。しかし、近代的思惟のうちにも世俗化された形でそのように二つの世界を対立させる形而上学的思惟が残った。

理想、良心、理性、最大多数の最大幸福、等々。これら完全には到達しえない範型が定立されて、真実のものとされ、これらの範型に対して真ではない現実が、否定的なものとして扱われる。現実が依然として否定的な真ではない世界とされ、真実の世界と対立される。

プラトン主義的キリスト教が、形而上学的思惟が、いまだに「巨大なぞっとするような影」をとどめている。》そこでこうしたプラトン主義が、逆転さ れなくてはならない。形而上学的思惟が否定され、克服されなくてはならない。これが「神は死んだ」ということであり、同時にこれは、形而上学的思惟の拒否 を意味する。

同時にこれはまた、価値ありとされていたものが、すべて無価値・無意味となることを意味する。これまで価値ありとされていたものの虚偽性が暴露さ れ、すべての至高の価値が価値を喪失すること、すなわちニヒリズムを意味する。いまや結局、すべての価値は無によってしか支えられていないことが、明らか となる。

すべてのものが支えがなく、無の中に投げ出されている。この無を埋めることはできない。すなわち、形而上学的思惟に立ち戻り、超感覚的世界を外に 立て、それによって支えることは、もはやできない。もはや何の支えもなく、無によってしか支えられていないことを、われわれは受けとめなくてはならない。

『道徳以外の意味における真理と虚偽について』

言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である、とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或 る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現 などではない。

なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり 「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造さ れる場合に、第二の隠喩が援用される。

これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木と か、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根 源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない。


一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。

すなわち彼は、絶対に個別的な事例という点からすれば、概念はその絶対的な個別性を、他との絶対的な相異を、棄却してしまっているとする。しか し、それだけではない。いったん「木の葉」という概念が形成されると、この概念は、自然の中にはさまざまな木の葉のほかに、まさに「木の葉」そのものとで も言えるようなものが、つまり例えば一つの原型が、存在しているかのような考えを呼びさます。

そしてすべての木の葉が、この原型に則って織られ、描かれ、測られ、彩色され、縮らされ、塗られるが、しかし下手な手でそれがなされる結果、どの一葉の見本も、原型の忠実な描写としては正確ではないし、信頼するに耐えないものに終っている、といったように見なされる。

すなわち彼によれば、概念が形成されることによって、すべての絶対に個別的な事例に対して一つの原型が、一つの原因が、存在しているかのような考えを呼び さます。がまさに存在していると前提されるこの原型、概念こそ、すべての絶対に個別的な事例の捨象であって、抽象にすぎない。

「個別的な現実的なものを看過することによって、われわれに概念が、それにまた形式が、与えられる。これに対して自然は、いかなる形式も、いかな る概念も、それゆえまたいかなる種属も、知らない。自然が知っているのは、ただ、われわれにとっては近づき難い定義しえないXだけである。」

われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動、したがって等しからざる諸行動のみである。しかしわれわれは、その等しからざるものを棄却 することによって等置し、ある人間を誠実だと言ったりする。しかもさらに、その人間が今日あのように誠実に振舞ったのは、彼の誠実さのためだ、と言ったり する。

これはしかしまたしても、「木の葉」そのものがさまざまな木の葉の原因である、というのと同じである。われわれは、誠実さと呼ばれるような本質的 な一性質については、全く何も知らない。われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動でしかないのに、それらから一つの「隠れた特性」を定式化し て、それに「誠実さ」という名称を付与し、しかもこの誠実さの原型こそが存在して原因となっている、といったように考えられる。

このようにニーチェは概念の形成に関して述べ、それと関連してとくに、概念における絶対的な個別性の棄却、また、概念で固定されたそのもの自体とでも言えるものの存在や原因の想定、に触れている。

「真理とは、隠喩、換喩、擬人観の動的な一群である。要するに、人間的諸関係の総和である。それが、詩的にかつ修辞的に高められ、転用され、修飾され、そ して長く使われたのちに、ある民族にとって確固たるもの、規準的なしの、拘束力のあるもの、と思われるようになったものである。すなわち、真理とは錯覚で ある。

ただそれは、錯覚であることが忘れられてしまった錯覚である。真理とは隠喩である。ただそれは、使い古されて、感覚的に無力になってしまった隠喩 である。真理とは貨幣である。ただそれは、その肖像が消えてしまって、いまや金属であってもはや貨幣ではないと見なされるようになった貨幣である。」

このように、隠喩である直観、さらにそれが昇華された隠喩である概念、これらのうえに成立して「真理」と称されているものは、それ自体が隠喩にす ぎない、とされる。あるいは換言すれば、錯覚であるとされる。ニーチェはもはや、真理と錯覚との間に、つまり真理と虚偽との間に、区別を設けない。

直観が、概念が、事物の隠喩であって、事物そのものに、事物の本質に、由来しているわけではない。それらが、事物の本質に対応していない、と言う のではない。もしそう言うとすれば、その主張は、独断的な主張であって、反対の「対応している」という主張と同様に、証明不可能だろう。正しい知覚が成立 している、つまり、客観が主観において適切な表現を得ている、ということがそもそも矛盾だらけのナンセンスである。

「なぜなら、主観と客観との間というような二つの絶対に相異なる領域の間には、いかなる因果性も、いかなる正しさも、いかなる表現もありはせず、 せいぜい、美的な関係があるにすぎない。という意味は、全く異質な言葉への暗示的な転移が、吃りながらの翻訳が、あるにすぎない。しかし、それをなすため にもいずれにせよ、自由に詩作し自由に虚構をなす中間領域と媒体力とを、必要とする。」

認識における事物の本質との対応、主観における客観との対応、といったことは否定される。直観による形象の形成が芸術的な隠喩の形成であり、そも そも人間の主観が芸術的に創造する主観である、というだけではない。主観と客観との間の対応、といったことは独断的な主張であり、仮定にすぎないのであっ て、その両者の間には美的な関係があるにすぎない、とされる。

ニーチェからすれば、自然法則の認識にしてからが、直観的「隠喩を土台にした、時間や空間や数の諸関係の模倣」にほかならない。どうしてカントのように、現象についてして唯一の絶対的な不変の学的認識が成立している、などという信仰が必要なのか。

結局のところ自然法則の認識にしても、生の保存に起因し、生の保持に快適な諸結果を生むように固定された因襲、偽装された慣習、そうしたものとしての隠喩、錯覚、虚偽、ということになろう。

ニーチェは以上のように、認識の「遠近法」という言葉はいまだ用いていないにしても、すでに、あらゆる真理を相対化し、真理と虚偽との間に区別を設けず、すべてのものが偽装であり、隠喩であり、錯覚であり、虚偽である、という見解に達している。

こうして彼はすでに、真偽の彼岸に立っている。唯一の絶対的な不変の認識、といったものは否定される。それは、そうしたものとして凝結ざれ固定された虚偽にほかならないもので
あることが、暴かれる。

ニーチェは、ゲーテの生と芸術とが示したような成熟を拒まれた人間、円熟を拒まれた人
間で、ある意味でその思想は初期においてほとんど出揃っていた、とする見方があるが、確かに、これまで検討してきた彼の思索についても、そのことが言える。

これまで見てきた真理についてのニーチェの見解は、権威あるものと見なされてきた真理の価値を、引きずり落す。真理の不動性、不変性に対して動揺を与え、われわれの認識が生のそのつどの立場との関係のものである、という見解に導く。

カントにおいて不変不動の認識と見なされたユークリッド幾何学とニュートン物理学はともに、その後ある意味で克服されざるをえなかった。認識の問題についてのそうした経緯の背後では、たとえ間接的であったにしても、このニーチェ的見解の出現も一つの意義をもつと言える。

ただしかし彼はいまの場合、知性の本質を、認識の本質を、生の保存という根源から解釈する。そしてその結果、真理とは偽装された慣習である、確固とした因襲であるといったように、道徳の成立についてと同一に近い解釈が、真理についても見うけられる。

 

2012年5月24日木曜日

数量化と視覚化と 感覚と感情と言葉と


◆五感の法則
・神経密度で並べると「①視覚 ②聴覚 ③味覚 ④嗅覚 ⑤触覚」の順
・人は豊かさと共に目、耳の満足から舌に移り最後は「匂いや肌触り」に移る
・視覚や聴覚を満足させる商品は大量生産が可能である(テレビや音楽等)
・味覚、嗅覚、触覚はコピーをして大量につくるには難しい
・特に「匂いや肌触り」にこだわるようになると「本物志向」になる
・匂いが一番本能に直通する、匂いをかぐとすぐに寄ってくる(鰻屋商法)
・上記の法則から相手の理性を無くすには
①単調なリズムの繰り返し②アルコール③セックス・・・で攻める
ref.→http://highenergy.tumblr.com/post/23612450125/62-php

言葉は感性(感覚や感情)や理性の一つのかたち(結晶)、手振りや身振りや声振りをより洗練、精緻化したもの。混沌より秩序を好む脳の性質なのだ(と思う)。絵画が視覚の言葉なら音楽は聴覚の言葉。ref→http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

羊を数えるというのは素朴な感情としてなんとなく理解できます。(数の起源。同じもの似たものがたくさんない世界だったら数えようという気持ちな んか起きなかっただろう。単位性をもった同じ種類のものがたくさんあるのが生物の特徴。生物だから同じものが次々に再生産できる。 →http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/blog-post_24.html 工場で同じものをたくさん作るというのは生物として当たり前の行為なんだなと!ww)

が(というともはや吉幾三http://www.youtube.com/watch?v=LnHjtLEIdGQを 思い出す)、暑さ寒さを数えようなんて普通は思わない(と思う)。いったい全体、何でまた温度を数えようと思ったのか!?現在は長さや重さそして音も色も 数字で表現できる。そのうち匂いも味も痛みも悲しみも愛も恋も数字で表現するようになるのだろう。G(ギガ)ワロス!T(テラ)オソロシア!E(エクサ) ウラヤマシス!とか、その兆候だ!

不 均質なもの変わってしまうものすなわち感性的(感覚、分割できない、アナログ、ヒューリスティック、直感、暗黙知)なものを、均質なもの変わらないものす なわち理性的(言葉、分割できる、デジタル、ロジック、論理、形式知)なもので置き換えたい、そういった脳の性質があるのだ(と思う)。あいまいなものを ハッキリさせたい、不確実なものを確実なものにしたい、謎を謎のままにして放っておけない、といった欲望(不安)があるのだ(と思う)。

分かる、知る、にも二通りあって、

(1)パッと分かるという方法と(2)順を追って分かる方法がある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=923010731&owner_id=3300442

『数量化革命』(A・W・クロスビー) P024 数量化と視覚化 - 新しい思考様式
ブリューゲルの『節制』は、1560年当時の西ヨーロッパの都市住民の心をとらえた事物を、いわばルネサンスの夢を寄せ集めた花香のような作品で ある。(中略)そのテーマとは、秩序を求める切実な欲求である。『節制』の登場人物の多くはなんらかの形で、現実世界の素材を均質な単位の集合体として、 すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。

http://www.print-collection.info/kohanga/bureghel.htm

『数量化革命』(A・W・クロスビー) P026 プラトンとアリストテレス - 古代の思考様式
プラトンとアリストテレスは今日の私たちより、人間の理性を尊重していた。だが、人間の五感については、自然の事物を正確に計量しうるものではな いとみなしていた。それゆえ、プラトンはこう述べている。すなわち、魂が五感を通じて何かを考察する場合には、「魂は肉体によって生成界に引き込まれ、進 むべき道を見失って混乱し、はてはめまいをおぼえる」と。(中略)

私たちは、二人のギリシャの哲人が想定していなかったカテゴリーが存在することを確信している。それは、合理的に計量できる程度に均質で、その結 果に基づいて平均値や中間値を計算できる事物というカテゴリーである。計量する際の人間の知覚は信頼できるのかという疑問に対しては、力織機や宇宙船や保 険統計表など、人間の知覚に対する信頼に基づいて人類が達成した数多の業績を指摘しよう。(中略)

人類がおさめた成功は偶然の所産に過ぎなかったのかもしれない--人間はしばしばこのよにして、つまり、うまくいくか否かという基準によって、おのれの能力を評価している。プラトンとアリストテレスほどの聡明な哲学者が、数量的に把握できる事物というカテゴリーの採用に逡巡したのは、なぜなのだろうか?(中略)

アリストテレスはこう述べている。すなわち、数学者はさまざまな次元を計量するに先立って、「あらゆる感覚的な性質を、たとえば重さと軽さとか、硬さとその反対の性質とか、さらに熱さと冷たさとか、その他の感覚的な反対的諸性質を剥ぎ捨てる」。(中略)

現代の人々は、重さや硬さや温度という性質も「その他の反対的諸性質(ghoti>善悪とか二項対立で捉えられる性質を指すと思われる)」 も、数量的に把握できると主張するだろう。こうした主張は、これらの性質そのものからしても、人間の精神に特有の性質からしても、絶対的に正しいとは言え ない。児童心理学者によれば、人間には独立して存在する個体を(クッキーが三つ、ボールが六個、豚が八頭というように)数える能力が先天的に備わっている ことが、幼児期においてすら認められるという。

ところが、重さや硬さという類の性質は、前述したように独立した量としては認識されない。これらは状態であって、独立して存在するものの集合体で はないうえに、しばしば流動的に変化する。それゆえ、これらの性質をあるがままの状態で数えることは不可能である。まず心の目で観察して、なんらかのルー ルに基づいて数量化し、しかる後にその量を数えるという手順を踏まなくてはならない。

こうした操作は、長さをはかる場合には容易に実行できる。(中略)だが、硬さや熱さ、速度や加速度となると--いったい、どうやって数量化すれば よいのだろうか?(中略)たとえば、14世紀のオックスフォード大学マートン・カレッジの学者たちは、ものの大きさだけでなく運動や光、熱さや色といった とらえどころのない性質も計量する価値があると考えるにいたるや、その考えをおしすすめ、さらに飛躍して、確実さや徳や優美さといった性質まで数量化しよ うと試みた。

たしかに、温度計が発明される以前に熱さを計量する方法を考え出せるのであれば、確実さや徳や優美さを数量化の対象から除外しなくてはならない理由はないだろう。


■関連リンク
・「味覚センサ」都甲・林 研究室
http://ultrabio.ed.kyushu-u.ac.jp/
・五感センサ(目次) -【クローズアップ・サイト】センサ - Tech-On!
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20081120/161524/?ST=sensor
・東原和成のホームページ 匂いの研究
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/touhara/touhara.html

人間にとって科学とは何か

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2008.01.31コピペ。

『人間にとって科学とは何か』(湯川秀樹・梅棹忠夫)を読む。この本はいいね。日常的なことばで非日常的なことが書かれているのがとてもいい。宗教、占い、科学などがなくならないのは、答えが欲しい、という人間の根元的希求なのだろう。

特に印象に残ったことば。(ことばは原文と同じではありません)

・納得の体系ということでいえば、宗教と似ている。

・科学の特徴は、ものごとを説明できないことが非常に多いこと。

・宗教はすべてを説明してくれる。未来も過去も、答えられないものがない。

・知の衝動、知的好奇心。ありとあらゆるものに関係を結ぶという関係衝動。

・宗教は安心の体系、科学は安心の体系を目指すが不安に満ちている。執念、勇気がいる。

・科学はあるかどうか分らない原理を探しているが、宗教は、はじめに原理がある。

・数の起源。同じもの似たものがたくさんない世界だったら数えようという気持ちなんか起きなかっただろう。単位性をもった同じ種類のものがたくさんあるのが生物の特徴。生物だから同じものが次々に再生産できる。

・言葉による思考の前段階、イメージによる思考。下意識から沸々沸いてくる人間の根元的なもの。生殖作用に似ている。

・価値は意味を持っている。科学には価値ということではカヴァーできない性質がある。価値というものはある種の目的論。目的と離れては、価値は意味を持たない。科学には目的がない面がある。

・科学の行き着く先は、好奇心なんか持つのがあかんのや、といった老子や荘子が理想としているところへゆくのかも知れない。

・最後は主観が勝つのじゃないかと思う。自分が思い込んでしまったら万事解決。

・くすりが宗教の代わりになるかならんか、まだわからんけれども(湯川)。涅槃薬というようなもので・・・(笑、梅棹)。

2012年5月22日火曜日

両極は相通じる!?あるいは、赤と紫のロンド

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2008.10.15コピペ。

「感性の起源」という本を読んでいて知ったのですが、赤と紫の波長は可視光の両極端にあるのに、見えとしては似た色に感じるのですね。だから、色相環なるものがあるのだそうです。ニュートンが最初に作ったのだそうですね。

よく、西洋は直線思想、東洋は円環思想などといいますが、正確には、古代ギリシャや古代インドは円環思想であり、ユダヤ・キリスト教的な考えが直線思想ですね!(ご参考

この色の知覚は、両極は相通じるを見事に象徴していると思います、今まで気が付きませんでした!

それから、紫ですが、どこの国でも高貴な色として扱われているようです。

「感性の起源」P21 紫はどこの国でも高貴な色として扱われてきた。聖徳太子の簡易十二階の制度で、紫は最高位となっている。十二階位は色で区 別され、紫、青、赤、黄、白、黒の六色で各色に二段階の濃淡があり、計十二色とされた。紫の染料は、紫草の根(紫根)から作られた。当時、紫草は日本に自 生していたとはいえ、その根は染料のみならず生薬として使われ貴重なものであった。

 まあ、さらに時代をさかのぼった地中海では、巻貝の一種、ムレックス貝が紫色の染料を作るのに利用されていた。貝の乳白色の分泌液は日光と空気に 触れることで紫色に変わるという不思議な性質をもつ。古代ローマでは、あのカエサルが紫を皇帝と貴族の一部に許される最高位の色と制定した。一グラムの貝 紫を得るのに、数千個もの貝が必要であった。そのため、この貴重な紫は皇帝紫といわれていた。

遠くアンデスの地に栄えたプレ・インカ文明、ペルー南部のナスカ文明でも貝紫を用いた染料が使われていた。この伝統は現在もメキシコやペルーの地 で細々と生き続けている。何ゆえに人は紫に魅せられるのであろうか。紫は可視光の中でもっとも波長の短い領域の色である。物理的には紫はエネルギーの強い 色である。その強いエネルギーが私たちの目を、そして脳を刺激するからだ、というのは的外れな考えであろうか。

それから、五感についての西洋の哲学者の考え方が面白い!

「感性の起源」P25 アリストテレスは、視覚は純粋さにおいて触覚に勝り、聴覚と嗅覚は味覚に勝っていると、視覚優位性を説いた。特に味覚と嗅覚が快楽と結びつきやすいことを指摘し、人間は抑制を失い、節度を失う恐れがあるとして獣的な感覚として低い評価を与えた。

キリスト教においても、同様に肉体と精神の対立が重視され、肉体的なものは快楽と結びつくものとして否定された。味覚は、食欲そして食に伴う快楽と密接に関係があるため、低く見たのである。逆に視覚はそうした結びつきが低く、高度な感覚と位置づけられていた。

デカルト(1596-1650)は「精神=魂」と「物質=肉体」を二つの異なる実体として区別した。有名な精神と物質の二元論である。そういった なかで、『光論』において、視覚を最も優れた感覚とし、やはり味覚を低いものとした。さらに、味覚を研究の対象とはしなかった。なぜだろうか。

これは、筑波大学の増成隆士教授らが議論しているように、「見る」という行為が対象に影響を与えないからである。ここに客観性が成立する。リンゴを見ただけではリンゴがどうなるというわけではないのである。(中略)

P26 つまり、視覚においては、見るという操作は、距離を置いて対象を捉えることができるという意味で自己の安全性が高いのである。味わう、嗅ぐ、触るは「見る」に比べ、危険性が高く、互いに無関係ではおられず、客観的操作を不可能とする。

特に、「味わう」--これはいかにも主観的、感性的な言葉である。じっくりと味わう、それはまさしく対象を体内に入れてゆっくりと消化することである。好き嫌いも含めて対象を理解し尽くすのである。他方、「見る」「見抜く」はクールな客観的行動を想起させる。

視覚では対象に直接関わらないからこそ、ことの真相が分かるともいえる。これが認識論の基礎である。他方、味覚と嗅覚の二つの感覚では、対象を体 に取り込まざるを得ない。これはとりもなおさず、快・不快と結びつきやすいことにつながる。西洋哲学は、このような快・不快を排除した「見る」という操作 に端を発する。

先に感性は、主として視覚情報に関連しているといった。これは私たち高等生物が進化の過程で視覚を発達させたからに他ならない。視覚情報は大脳新 皮質で処理され、その後、好き嫌いの判断を下す古い脳である扁桃体に送られる。他方、味覚や嗅覚では、比較的早い段階で扁桃体において情報が処理される。

味覚と嗅覚は、対象を体内に取り込む、古い脳で処理される、という二つの意味において、他の感覚とかなり異なっている。この事実はもちろん、味覚と嗅覚が化学感覚で、視覚や聴覚が物理感覚であるということと関係している。

(はてぶ/色彩論)http://b.hatena.ne.jp/it1127/%E8%89%B2%E5%BD%A9%E8%AB%96/

2012年5月20日日曜日

燃えやすいとはどういうことか

 遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2008.07.11コピペ。

H2SはH2Oとは違って、酸素に触れただけで電子を放り投げてしまうほど小さな力で互いに結合した分子でした。ですから、地表では電子の受け手、酸素さえあれば自然に酸化されましたし、ここではその受け手さえあれば加熱だけで電子を離してしまいます。

現在、化石燃料の枯渇を目前にして、多くの科学者が人類の明日のために、水からも加熱だけで電子を取り出すための触媒(酵素のように働く)の探査に必死になっています。

H2Oでは酸素と水素が強い力で結び合っていますので、両者を加熱だけでは簡単に切り離せません。誰かその方法を見出したなら、近い将来に来る水素社会の実現に大きく貢献するのですから、ノーベル賞を一度に二三個与えても良いほどです。それこそ人類の未来に光明を灯す研究成果です。

深海でもH2S由来の電子からATPとそれ由来の還元力が用意され、それらの受け手さえあれば、そこに生命の営みが始まるという原理は地上と同じ です。幸い、電子の主要な受容体として、噴気孔から二酸化炭素(CO2)などの酸化状態の無機分子や元素が放出されているようです。

とすれば、深海でも地上と同じ生命の営みがあり、有機物の生産が暗闇の世界で繰り広げられても不思議なことではありません。生命とは基本的には電 子の放出(酸化)とその受け手(還元)があることが最も重要な原理となった営みです。ただ、この海底での命もH2Oが存在して営まれていることです。http://www.plantatree.gr.jp/handinhand/message/esashi9.html
from HAND IN HAND 町を緑に都市に自然を エッセイ 江刺洋司
http://www.plantatree.gr.jp/handinhand/message/index.html

科学エッセイです。まだ3分の一しか読んでませんが、植物がどんな風に生きているのか、基礎的なことがらからきっちり科学のことばで(しかも分かり易く--だからといってすぐ理解できるほど簡単な話でもないがww--)語られていてとても説得力があります。

近ごろの環境の話題は、専門的知識が乏しいため、何が正しくて何が間違っているのか、なかなか判断がつきません。あっちにふらつきこっちによろめく、そんな状態です。そんななか、こうした基礎的な知識を身につけて置くことは、大切なことだと思います。

まあ、環境問題と絡ませなくても、生命の話は単純に面白いです。自分の肉体がどんな具合にできているのか、知りたい好奇心は素朴な感情の発露です。知れば知るほど、自然の営みの凄さに驚くばかりです。

まさに、センス・オブ・ワンダーです!

#生物をエネルギー代謝という視点で眺めると、

(このエネルギー代謝という視点は無数の生物の共通事項として捉えられるので、DNAという視点と同様、生命の本質に触れた気分になれるので、わたしの頭はとても心地よいww)

電子供与体と電子受容体と電子(注)を取り出すためのエネルギー、この三つの存在によって生命は生まれる。(生命の三要素と理解した)あとは、供与体、受容体をどんな物質が担うか、エネルギー源を何にするかで(光、深海熱噴出、有機体)、そして、このプロセスを実現するための物質構成によって、生物の多様性が生まれる。(と理解した)http://co.ori.u-tokyo.ac.jp/mbcg/j/themes/coastal/p2.html http://www.plantatree.gr.jp/handinhand/message/esashi11.html http://www.geocities.jp/acaradisco55/Taikou/science17.html

(注)電子の移動にはプロトン(水素イオン、H+)を伴うことが多く、裸の電子よりむしろ水素原子(H=H+と電子e-)として移動する。(『進化の特異事象Singularities』P40)

人間の場合、電子供与体は(食物摂取した有機体から得られる)ブドウ糖や脂肪酸など、電子受容体は(呼吸によって得られる)酸素、電子を取り出すエネルギー源はやはり食物摂取した有機体、ということになるのかな(と今のところ理解した、もちろん、中間的にはいろんな物質が関与しているのだが、それ を言い出すと途端に複雑になって頭がぐちゃぐちゃになるので止めるww)。

早い話、水は高いところから低いところに流れるように、電子もエネルギー準位の高い物質(電子供与体)から低い物質(電子受容体)の方に流れると いうこと(と理解した)。ただ、自然に流れるか、刺激(エネルギー)を与えてやらないと流れないかは、その物質たちの性質による。電子の結びつきの強弱によって決まる(と理解した)。

(メモ)エネルギーを取りだす仕組み
http://osha-bun.hp.infoseek.co.jp/Illust2/energy.html
(メモ)生元素動態分野:沿岸域の生物地球化学(2)
http://co.ori.u-tokyo.ac.jp/mbcg/j/themes/coastal/p2.html
via
(メモ)極限環境生物-微生物の種類(用語解説)
http://homepage3.nifty.com/nishimura_ya/earth/yo_bisei1.htm
from http://chikyu-to-umi.com/earth/

(メモ)代謝 (metabolism)、異化 (catabolism)、同化 (anabolism)
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/general.htm

人間の進化とエネルギー貯蔵 第3回新エネルギー世界展示会 7.30-8.1

 遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2008.07.10コピペ。



人間は食べたものを酸素で燃やして活動のエネルギーを得ている。酸素は常に補給しなけならないが、食べ物は数時間から一ヶ月?の間に補給すればよい。

なぜか? 酸素は貯蔵できないが食べ物は貯蔵できるからだ。貯蔵のかたちも一通りではない、今すぐ必要なブドウ糖や脂肪酸があまると、グリコーゲンやいわゆる脂肪や(ある意味たんぱく質も)としてしかるべき場所に貯蔵される。http://www6.plala.or.jp/yamaski/sakiko/theory.htm

ちなみに、脳細胞は主にブドウ糖をエネルギー源として利用するのに対し、心筋細胞は主に脂肪酸をエネルギー源として利用する。一方、最大のエネル ギー消費臓器のひとつである骨格筋はブドウ糖と脂肪酸のいずれもエネルギー源として利用する。ただし、骨格筋はブドウ糖と脂肪酸の両方が存在する場合には ブドウ糖を優先して利用する。http://202.216.128.227/%93%A7%90%CD%95S%89%C8/04.19.htm http://202.216.128.227/%93%A7%90%CD%95S%89%C8/04.24.htm http://koujiebe.blog95.fc2.com/blog-entry-40.html

#ところで、酸素は何処で使われるのか?

エネルギーという視点で見ると、食べた栄養素(主に糖質(炭水化物)、脂質、場合によっては、たんぱく質)は最終的にATPに変換される。ATP は(細菌はじめどんな生物もこれを使用することから)エネルギー通貨とも呼ばれ、細胞の活動に必要な様々な化学反応のためのエネルギー源として使われる。 (筋肉の例:http://www.dnszone.jp/contents/nutrition0102.html http://www.sports-n.com/s_run/htm/0202-j.htm

ATPは個々の細胞内で作られる。ATPは解糖系、β-酸化、TCA回路、電子伝達系、酸化的リン酸化反応といくつかの系を通して作られるが、酸素は、電子伝達系の最後のプロセス、酸化的リン酸化反応で使われる。この過程でもっとも多くのATPが作られる。http://physiology1.org/doc/chapter.php?Id=186 http://wokkey.kachoufuugetu.net/learn_about_body.html#move-nourishment_of_cell http://www.geocities.jp/msakurakoji/900Note/07.htm

ここでのポイントは、ATP製造に必ずしも酸素を必要としないこと。酸素を使うとATPがたくさん作れる、すなわち、食べ物に含まれるエネルギーを効率的にATPに変換できる、ということ。

このため、酸素系の細菌は多細胞化、そして、大型化が可能になった。人間もそう。http://www.plantatree.gr.jp/handinhand/message/esashi13.html http://www.brh.co.jp/seimeishi/1993-2002/30/ss_2.html http://d.hatena.ne.jp/mmk_chocolate/20060412/1144832624 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=679364157&owner_id=3300442
 
http://www.plantatree.gr.jp/handinhand/message/esashi10.html

松岡:普遍性は、情報をつまんで貼り付けるカットアップ型か、情報を織り込むホールドイン型の二種類。つまり世の中には編集的現実性しかないということ。
茂木:たしかにコドン(遺伝情報の暗号)の世界も、普遍的な方法をもちながら結果の約半分がミスプリントで成立するわけだから、もともとネット社会は生命体とよく似た体質をもっていることになる。http://www.eel.co.jp/seigowchannel/archives/2006/11/dairy_nn_1.html

#ここで疑問、

酸素は貯蔵できない、食べ物は貯蔵できる、なんか、バランス悪くないだろうか?

このアンバランスでも生きて来られたということは、食べ物は豊富にはなかったが、酸素は豊富にあった、ということだと思う。裏を返せば、進化の過程で食べ物を貯蔵する能力を獲得したからこそ淘汰されずに生き残ってきたともいえる。

つまり、何がいいたいかというと、貯蔵能力は、生きていく上で思っている以上に大事だということ。進化的に。

そういう意味で、人間の未来は、エネルギー貯蔵の技術にかかっているのかもしれない。要チェックである。

1. エネルギー貯蔵 超伝導
http://app2.infoc.nedo.go.jp/kaisetsu/egy/ey10/index.html
2. エネルギー貯蔵 フライホイール
3. エネルギー貯蔵 圧縮空気

これらの技術が、下の技術革新において重要な役割を果たすだろう。

(メモ)エネルギー革新技術計画
http://www.yasuienv.net/EnergyInnovation21.htm

(メモ)よくわかる!技術解説 新エネルギー・省エネルギー技術分野 目次
http://app2.infoc.nedo.go.jp/kaisetsu/egy/index.html
(メモ)TEPCO : おもしろ情報館
http://www.tepco.co.jp/pavilion/
(メモ)産総研:太陽光発電研究センター
http://unit.aist.go.jp/rcpv/ci/index.html
(メモ)太陽エネルギーで水から水素を作る(基礎研究最前線)
http://www.jst.go.jp/kisoken/seika/zensen/02doumen/
(メモ)光触媒のページ
http://www.d7.dion.ne.jp/~shinri/


(メモ)北海道洞爺湖サミットにおける『ゼロエミッションハウス』展示について
http://www.meti.go.jp/topic/data/e80617aj.html

(メモ)第3回新エネルギー世界展示会
http://www.renewableenergy.jp/index.html

(関連)燃えやすいとはどういうことか
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/blog-post_4637.html

ヒトはなぜことばを使えるか

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2006.07.19コピペ。

「ヒトはなぜことばを使えるか」という本を読んだ。半分は読み飛ばした。というのは、例えば、

P124 動詞を想起しているときは言語優位半球中側頭回の後方が賦活された。色名を答えているとき賦活された領域は、後頭葉視覚領域の中で色の知覚に関与しているとされる領域の直前方(ブロードマンの37野)であり、・・・

てな具合で、専門的記述に降参!!それから「なぜ」というより「いかに」の説明が長すぎたのも一因だな!?「いかに」がなければ「なぜ」もわから ないのだが、まあ、今日は根性が無かったのでしょう、、、(あ、第一章「ことばとはなんだろう」は、音韻の話しとか、それなりに面白いです)

が、第四章(脳・心・ことば)「心の出現と創発について」が面白い。「科学における心」(グレゴリー)を引用しての「創発現象を説明する三つの立 場」についての記述はお宝物。考え方とその動向について、このような分り易い解説は、そうざらにはないですよ。頭が整理されたようでスッキリしました。

以下抜粋。

第一の立場、創発される性質(時計なら、時を刻むという働き)が、部品の一つ一つに潜んでおり、部品がまとまると、その性質が顕在化すると考え る。時計の部品の一つ一つに「時計性」があって、「時計性」が集まると時計になる。この考えを脳にあてはめると、脳を構成する素材にはすべて「心性」が備 わっていて、集まって脳になると、心が現れるということになる。

第二の立場は、創発する性質は機能水準ごとに備わっていると考える。この考えをつきつめると、高い水準の性質は高い機能ににしか現れないから、低 い機能水準が創発する性質から一段高い機能水準が創発する現象を記述することは、不可能だということになる。逆に言うと、高い水準の特性は、低い水準へ還 元しようのないものである。

ここから先が面白いのだが、彼はこの第二の考えをさらに二つに分類している。

一つは、彼が悲観的創発論と呼ぶもので、ある機能水準以上の複雑な創発現象は原理的に永久に説明不可能だ、と考える。この立場に立つと、心は永久に神秘のベールを脱ぐことはないということになる。

もう一つは、彼が楽観的創発論と呼ぶもので、この機能水準の差は絶対的なものでなく、今は理解が困難でもいつかは克服できるものと考える。この考 えによれば、脳の生理学的な機能はいつかは解明され、その機能が解明されれば、さらに一段高い水準の心理現象も解明されるときがくるであろう、という楽観 的な展望がもたらされる。心も生理学で記述できるはずなのである。このとき心理学はお払い箱になってしまう。

第三の立場は、創発特性は部分には所有されていず、機能水準ごとに所有されているものでもない。完全な構造が持つ特性であると考えるものである。この場合、界面性(インターフェイス性)が重要なキーワードになる。

部分は単に部分だが、部分がお互いに界面性を持って全体を作るとき、つまり、部分がお互いに働きあう機能によって組み合わされたとき、全体の特性 が出現する。時計が完全に組み立てられていない場合、部品は単なる素材に過ぎない。部品の界面性によってお互いが結びつけられていないからである。

(中略)

グレゴリーはおおよそ以上のようなことを述べ、第三の考え方の重要性を強調している。この見事な解説に対する筆者の感想は、全体は部分からは見えないが、部分なしでもやはり全体は見えない、というしごくもっともな現象学的事実である。

第一の考え方はアニミズムに近い。万物すべてこれ仏性、という仏教の考えもこれであろう。第二の考えのうち、悲観的創発論は脳の研究者には案外多い。この人たちは、結局、心なんか分りっこないよと口には出さないが、密かに思っている。

楽観的創発論はいま盛りである。コンピューターサイエンスをやる人たちは、脳の仕組みを究めれば心も分るはずだ、と固く信じている。

筆者は第三の考え方を支持する。脳の一つ一つの機能は、それぞれの界面性が対応する機能と結合することで、一つ上の水準の性質を発現し、その水準 の機能がお互いに結びつくことでさらにもう一つ上の水準の性質を発現する、というかたちで機能の階層を上昇して行くものであろう。

心も、ある一つの生理機能水準から、いきなり創発するのではなく、低い段階の働きから、高い段階の働きへと、創発を重ねて生成される。まず、覚醒 意識が現れ、意識から感情が現れ、感情から表象性の性質が現れ、表象性の性質から意図が現れ、という風に、少しずつ水準を上げることで、そのたびに違う性 質を創発してきたのではなかろうか。

まあ、第一は魅力的だけど論外。第二の楽観論なしには、第三の道も開けないとは思います。清水 博「生命を捉えなおす」も、第三の考え方だったと思う。こちらは、生命についてです。

あと、

「大脳両半球にいわばスイッチが入れられた状態になり、心に覚醒意識という明かりが点灯する。この明かりによって、情ー>知ー>意が動き始める」

という記述があって、意識を明かりに喩えるのは、常識みたいですね!

キーワード:自然の階梯(アリストテレス)

2012年5月19日土曜日

意志と表象としての世界

『図解!ニーチェの考え方』を買った記念。遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.11.26コピペ。

認識について、感覚と理性という対立軸がある。それについては今朝方つぶやいたものを下記にコピーした。それとは別に、意欲・意志と表象・認識という対立 軸がある。ライプニッツ・カント・ショーペンハウアー・ニーチェの系譜がそれである。以下、『反哲学入門』P173より部分的に抜き書く。
カントは、現象界の因果関係に拘束されず物自体の世界で自由に行為することのできる「意志」と、その現象界に関わる「表象」という理性の二つの能力を、ライプニッツが「単子」の二つの根本特性と見た「意欲」と「表象」から受け継ぐ。

「意欲・意志」の方が、「表象・認識」の能力よりも根源的なものだと見られている。

「意志」「意欲」はむしろ「生命衝動」とでも言った方がいい。弱肉強食の世界でただ生きようとする、どこに行くのかまったく分からない無方向な生命衝動のようなものが考えられている。
---認識について今朝方つぶやいたこと--

プラトンは、物質世界は「常に成るもの(生成・消滅するもの)であって、在るもの(実在するもの)ではない」ゆえに、物質世界には背を向けて、「常に在るものであって、決して生成・消滅しないもの」を目指すように、と説いている。『数量化革命』P30

言葉は、それが表示する物とは少しも似ていないが、それでも我々にその物を理解させる。・・・自然もまたなんらかの記号を定め、我々に光の感覚を 持たせることが-この記号はその感覚に似たものをなにもその内に持っていないとしても-どうしてできないであろうか。デカルト『世界論』

存在といっても、変わってゆく「成る存在」と変わらない「在る存在」があるのだなー。

言葉や数式は変わらない存在を記述するのに適している。変わらない存在(単語や法則)を繰り返すことにより変わってゆく存在を記述することができる。

哲学の言葉に、現実存在(実存)と本質存在という言葉があるが、実存と物質世界(成る世界)、本質と精神世界(在る世界)が対応しているように思われる。訂正→実存と成る世界=感覚=主観、本質と在る世界=理性=客観が対応しているように思われる。

パターン認識は感覚!?理性!?この二つの間には中間色があるのだろう。

たとえば、文字の認識。人が書く文字は同じ文字でも一人ひとり違う。違うと認識するのは感覚。というのは了解できる。でも、同じと認識するのは何 なのでしょうか!?感覚が抽象化(汎化)されているには違いないのだが、理性というほどには考えて認識しているわけではないし、、、やはりパターン認識能 力というしかないか。

さまざまな出来事から法則を見つけ出すようなもっと高度なパターン認識なら、理性(といっても感覚を通して)の働きといえるのかも。

関連 追記2012.05.19/23:53
・アートマン思想(スピリチュアリズム)を否定したのが釈迦。「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」4/6
http://www.youtube.com/watch?v=s0R3OYqIrII&feature=channel&list=UL#t=6m12s
・釈迦の「毒矢のたとえ」、存在の三視点「空観・中観・仮観」「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」5/6
http://www.youtube.com/watch?v=ZuWERqgJ2xQ&feature=channel&list=UL#t=5m

2012年5月14日月曜日

宗教としてのユーモア

遠い記憶を求めて、mixi拙日記2006.09.21のコピペ。

「ユーモア学入門」より 要約、抜粋

要するに苦境は超越者に頼るのではなく笑い飛ばせということ。笑いとしての宗教に仏教がある、とりわけ禅宗(註1)がそうなのだそうだ。ええぇーーっ!!!

P193 ノモス型人間は宗教へ向かい、カオス型人間はユーモアで対処する。

中世キリスト教と笑いが一つの主題である小説『薔薇の名前』の著者U・エーコは、「笑いは恐れをなくさせ、ついには人間は神をも笑うようになるから」と、中世のキリスト教が笑いを厳禁した理由をこう指摘している。

クソ真面目系ノモス人間は、信仰という牢獄に閉じ込められた魂の囚人になりやすい。

宗教的信念のエッセンス部分は神議論とよばれる。神議論とは、世俗的な論理からはどうしても納得のゆかない人間と世界の不条理を「神」という観点から説明する論理だ。

たとえば「努力すれば報われる、だから努力しなさい」というのが世俗の論理だが、残念ながら人生や世の中は運命の皮肉や偶然のいたずらがやたら多くあって、必ずしも報われない。

そういった不条理な目に遭っている人たちに、「神」の論理という世俗を超えた図式で説得するのが神議論なのだ。

もともと運命の偶然としかいいようのないものにもっともらしい「意味」をあたえることで、人を安心させ(これを「魂の救済」という)、献身(+献金?)を引き出すのが神議論。

これに対して、世俗の論理(図式)と現実とのズレを愉快と感じるのはカオス型人間、不条理に翻弄される自分を笑い飛ばしてしまうのだ。真面目な自分、苦悩する自分を笑い飛ばすのだ。

その究極に、ニーチェ(註2)の言う運命愛が姿をあらわすのだ。運命の過酷さに見舞われるたびに、「まいったかって?いやまだまだ、いや何度でもかかって来い!おれはおまえを愛する」と叫ぶ雄渾な精神である。

歴史上最も宗教を毛嫌いし、歴史上最も深く笑いを愛したニーチェはこう主張する。

笑いとは、地上で最も深く苦悩する動物が自分のために見出した生に耐え抜くための手段であって、だから人間は笑うこと、自分自身を超えて笑うことを学ばなければならない、と。

ユーモアとは、もう一つの宗教なのだ、そして、実は、仏教がその一つなのだ。

ああ、だから寒山拾得なのね!

自分は、本当に苦しい時笑えるだろうか!?

註1
禅がめざす悟りの境地を描く禅機画のモチーフとして、最もよく登場するのが「寒山と拾得」だが、彼らはたいてい笑っている姿で描かれ、おなじく「羅漢」や「七福神」も多くは笑っている。まさしく、悟りとは笑うことなのである。
註2
『ツァラトゥストラはかく語りき』では、タイトルが仏教の「如是我聞」、主人公ツァラトゥストラはゾロアスター教の創始者、作品全体が『新約聖書』のパロディ。

ワインが安い国に酔っ払いはいない

遠い記憶を求めて、mixi拙日記2008.07.17のコピペ。

映画『幸せのちから』 (The Pursuit Of HappYness)

映画のタイトルは、ジェファーソンの独立宣言にあるthe pursuit of happinessをもじったものだそうです。

トーマス・ジェファーソンの言葉をWEBで拾ってみた!

1.すべての人は平等に作られている。そして、生命の権利、自由の権利、幸福を求める権利、その他何人も奪うことの出来ない権利を、創造者から与えられている。

2.憲法は国家権力に対する猜疑の体系である。

3.活発な精神は常に幸せである。

4.腹が立ったら十まで数えよ。うんと腹が立ったら百まで数えよ。

5.お金を発行する権利は、銀行から取り上げて本来持つべき人たちの手に戻すべきである。
政府が自国通貨を発行しようとすると大統領が殺されるというのは、映画の世界のようですが、リンカーン、ジャクソン(未遂)、ケネディだけではなく、実際に未遂まで入れると、何度も起きているのです(「経済大国なのになぜ貧しいのか?」P62)。2012.05.14/10:31追記

6.A government big enough to give you everything you want, is strong enough to take everything you have.

なんでも与える事ができる政府は、何でも取り上げる事ができるほど強い政府だ。

7.ワインが安い国に酔っ払いはいない

8.見栄は飢え、渇き、そして寒さよりもお金を使わせることになる
9. 何も読まない者は、新聞しか読まない者より賢い。なぜなら、嘘を信じる者より真実に近いからだ(2012.05.14/09:47追記)

2012年5月11日金曜日

愛は脳を活性化する

※mixi拙日記2008.02.23コピペ。(遠い記憶を求めての一環)2012.05.11/11:55

世の中を見ると悲しい面も輝かしい面もある、どうしようもない人間もいれば、すばらしい人間もいる。どうせなら、後者を見て生きたい。自分が前者の人間だから。

目標ではなく夢を持つべきだ、死ぬまでに絶対達成できない夢を持つのだ。そうすれば目先のことなんか小さなことに見えてくる。あくまで非現実的に生きる、これは決して他人にはお薦めできない、私だから持てる私だけの夢。

みすぼらしくても、よれよれでも、恥ずかしがることはない、前を向いて、堂々としていればいい。

・人が輝いて生きることのできる社会
http://www.gpc-gifu.or.jp/chousa/infomag/gifu/100/5-matsumoto.html

1) 非線形非平衡系システムの自己形成のための生理的欲求と関係欲求の充足。
2) 自己増殖系であろうとすることから、進化が進み性分離が起こった後の動物では性欲求の充足。

生物は、これらの3つの基本欲求の充足に向けて行動規範を作り、行動する存在であると言えよう。

例えば、風景をよく覚えようとするなら、その景色を百回眺めるより一回スケッチする方がよく覚えられるのは、脳の学習戦略が出力依存であるためである。ボケの防止には、まず日常の生活の中で積極的に行動し、会話し、考え、感情を豊かに表現することである。

人本来の目的が高きに向かって成長することであるから、成長にあるプロセス自体が重要なのであって、そのプロセスの中に喜びが感じられるよう、本来的に創造されているのである。

人の幸福はその人の居る位置 (その人の出来高) ではなく、 高きに向かって進もうと努力するその傾きの度合である。

人が輝いて生きることのできる環境としての社会システムが、まず中心に据えるべきことは、人の評価を出来高評価からプロセス評価にすることであろう。

夢は容易に達せられない人生の目標であり、この実現に向けて取り組んでいる時、人は本来幸せ感があるように創造されている。

この脳の目的 (脳のこころ) にまったく適合せず、むしろ社会慣習に迎合して脳の情報処理の仕組みを獲得するのでは、 人は輝かない。
人は独自の夢を自分で設定し、その実現をめざして挑戦し生きることで輝く。

「あなたが何ができる、何を成したかではなく、あなたがあなたであるだけで素晴らしい」 と他人から受容され、あるいは自分で自分を受容することができれば、脳活性が上がり快な感情も得て、苦しく困難な状況に立ち向かうことができる。「愛は脳 を活性化する」 という由縁である。

2012年5月3日木曜日

行動者は常に非良心的である

※mixi拙日記2008年08月09日のコピペです。(失われた記憶を求めてPJの一環)

偉大な先人たちは、複雑で多面で豊かな現実を見抜いていたんですね。最初にあるのは、言葉(頭で考えたこと)ではなく、行動(経験に裏打ちされた身体が感じること)なのだな!(と、行動しない男が頭で考えているww)。


()ハイエク 知識社会の自由主義
ハイエクは、人々は不完全な知識のもとで慣習に従って(必ずしも合理的とはいえない)行動をすると考えた。http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/576a99c4b2f469a8109621f8263eba27

()人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすかに」によって決定される。(中略)人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何ものかであるかを規定し返す。生産関係の中で「作り出したもの」を媒介にして、人間は己の本質を見て取る、というのがマルクスの人間観の基本です。(『寝ながら学べる構造主義』P27、某マイミクさんから頂いたthx!)

()ゲーテは、『そもそも植物とはなんぞや』『光とはなんぞや』などとは考えない。具体的に、種から芽が出て葉が成長していく植物のメタモルフォーゼ(変態)を、自分でスケッチしたりする。頭の中で考えるのではなく、実際に体を動かして調べるのだ。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/zayuu-no-Goethe.html

()初めに言葉があったのであろうか。いや、ゲーテが見たように、初めに行為があったのだ。
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

()ゲーテは、なんといっても行動することをとても大切にした人です。いかにして人は自分自身を知ることができるか。観察によってではなく、行為によってである。汝の義務をなさんと務めよ。そうすれば自分の性能がすぐわかる (←リンク切れ)


()しかし主観の真理に固執して,それと両立しない既成の人倫的な慣習や伝統的文化を破壊するのは,ヘーゲルに言わせれば,特殊の立場に固執するので「悪」なのです。(←リンク切れ)

()形式論理学において、Aであるものは、Aでしかない。A=Aだ。A=Aである場合、A≠Aではありえない。 ところが、ヘーゲルは、これは現実の豊かさをとらえるには無理がある、限界があると感じ、弁証法論理学をうちたてた。A=Aであると同時にA≠Aでもありうる、と考えたのだ。 自然や社会や人間精神は、つまり事物は、一面的なものではない。 多面的で全面的なものだ。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hegel-daironri.html

()「理性は……悟性の固執する特殊的な規定(たとえば定義をあたえて、他のものとの境界をきっちり区別するような人間精神のありよう。「Aとは○○であって、××ではない」など、事物に、たった一つの「規定」をあたえる精神)を否定するわけですが、たんに否定するだけでなく、それをもっと大きなもの、普遍的なもののなかにすくいだし、とらえなおす、というわけです。(←リンク切れ)

現代物理学は、ニュートン力学を否定しますが、それよりすすんだ理論の一モメントにおとしているのとおなじことです。……『普遍のなかに特殊を把握する』とは、特殊的なものを普遍的なものの一つのケースとしてとらえる、ということです。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hegel-daironri.html

()悟性(知性)intellectusと理性ratioの序列http://essentia.exblog.jp/176812/

()「人間は遺伝によって決まる動物に過ぎない」とか、「人間は環境によって決まる動物に過ぎない」という血と土を絶対視するホムンクリスムス(人造人間合成術)がナチズムの根底にあったとする。http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20050109

(関連)コウモリであるとはどのようなことか 波長と赤の関係は、相関であって因果ではない
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=890850114&owner_id=3300442
(関連)この世界について最も理解できないことは、それが理解できるということである
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=879429656&owner_id=3300442